海のものとも、山のものとも。

2017年 02月15日・成毛眞 投資コラム 第9回

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  • 1600万円で買った
    マンションが全焼した話

    20世紀の終わりに私が昔勤めていた会社は、当時、表参道にありました。表参道と言えば、地下鉄銀座線、半蔵門線、千代田線の駅がある、たいへん便利な場所です。当然のことながら、30歳そこそこの私がその近くに住めるはずもなく、町田から通っていました。町田からですと、小田急線に乗り、代々木上原で千代田線に乗り換えるだけだからです。

    その頃、住んでいたのはエレベータのない外階段造りの5階でした。もちろん、借りていました。なかなか快適な部屋だったので、別棟のやはり5階に空きが出たときに、思い切って買いました。価格は1600万円ほどでした。こんな風に安易に部屋の購入を決めたのは、忙しかったからです。忙しさは時に、人を思考停止に追い込みます。

    さて、同じ敷地内の5階から5階というなんとも微妙な距離だったので、引っ越しは業者に依頼せず、会社の若手に頼みました。5階から5階であることは事前に伝えてあったのですが、後になって「こんなことなら引き受けなかった」「いくら何でも本が多すぎる」と言われました。さぞかし重かったことでしょう。

  • 素晴らしかった桜上水の家

  • 1600万円の新居はなかなか快適でしたが、マーケティング本部長に昇進し、徐々に仕事が忙しくなったため、1分1秒でも会社の近くに住みたいと思うようになった私は、会社に借り上げ住宅を用意してもらい、そこへ引っ越すことにしました。場所は桜上水です。町田のマンションはそのまま賃貸に出しました。

    桜上水の家は、素晴らしい家でした。一戸建てで、庭に梅の木があり、その庭の向こうは森のような緑です。決して広くはないのですが、まさに快適。まだ幼かった娘も庭で思う存分、遊んでいました。

    そういうときに限って、飛び込んでくるのは悪いニュースです。なんと、町田で貸していた部屋が火事に遭ってしまったのです。幸いなことに、住んでいた人は無事でしたが、全焼。一瞬、呆然としましたが、すべては保険でまかなうことができ、不幸中の幸いで、部屋はきれいにリフォームされました。その部屋は後に、5000万円ほどで売却しました。思考停止で買った部屋が、バブルの時期と重なったとは言え、3400万円の利益を私にもたらしたのです。禍福はあざなえる縄のごとしと言いますが、まさにその通りだなと思った瞬間でした。

  • 実は町田ではなく相模原市

  • その後、素晴らしい桜上水の家を買い取ることも考えましたが、しかしそれだけの財力は私にはありませんでした。そこで別の場所に土地を探し、現在の久我山に落ち着いています。

    ところで町田、町田と書いてきましたし、建物の名前にも堂々と町田の文字が入っていましたが、実際の住所は神奈川県相模原市でした。桜上水は駅こそ世田谷区ですが、新居は区界から少し離れた杉並区。惜しいところに暮らしてきているのは、実に私らしいなと思います。

    そして私らしいと言えば、5階から5階の引っ越しの時に言われた「いくらなんでも本が多すぎる」。自分は読書家であるという自覚はありましたが、そこまでなのかと驚きを新たにしました。それから20年以上経って、私はノンフィクションの書評サイトを立ち上げることになるのですが、その読書量こそが、若き日の私にとって最大の投資でした。3400万円という大金ですら、その価値には及ばないと思っています。

成毛 眞
(なるけ まこと)

HONZ代表。元マイクロソフト社長。インスパイア取締役ファウンダー。スルガ銀行社外取締役。早稲田大学ビジネススクール客員教授。週刊新潮、週刊東洋経済、月刊クーリエ・ジャポン日経BPネットにエッセイ連載中。産経新聞、週刊朝日などに書評定期寄稿中。代表的著書に『面白い本』(岩波新書)『大人げない大人になれ』(新潮文庫)など多数。